ひょっとしたらこの世にラクして美しいものは無いのではないか?と思うこのごろ

この世で美しく感じられるものっていつも厳しい環境や状況を乗り越えた先にあるのではないか。

逆にいうと、ラクしているのに美しいというものって基本的に無いのじゃないかと考えたりします。

例外はあります。

それは生まれて間もないもの、まだ未熟な状態もの。

そういったものは、ただ在るだけで新鮮でそれだけで美しい。

人間でいうと、たとえば赤ちゃんは何もしていなくても瑞々しくて存在そのものが生命感にあふれている。

ただそこにいるだけで見るものに感動すら与えます。

でも成長するにつれ、美しいと感じられる人間は、自己規律のもとである程度の厳しい環境や状況を乗り越えてきていると言えるかなと思います。

反対に、安穏とした惰性的な日々を送っている美しい人はいないとも言えます。

ニート生活を送っているような人は、ラクで楽しい生活かもしれませんが、美しい人だなとは感じられないはず。

ここでいう美しさとは、視覚的な美しさだけでなく在り方そのものです。

たとえば女優さんの凛とした佇まいや、目標に向かって努力するアスリートの真剣なまなざしなど。

また病と闘いながら生きる人が見せる笑顔も美しく映るでしょう。

「美しい」という表現でなくても、「カッコイイ」でも「粋」と言い替えても良いのですけれど。

これは人間に限ったことでなく、色々なものに当てはまるんじゃないかなと思います。例えば、切り立つ雪山の堂々とした風景の美しさに感動するのは、厳しい自然環境の結果出来上がった風景だということを感じ取ることが出来るからですし。

年を重ねれば重ねるほどこの傾向は強くなるのではないかと。

要するに年をとるほど自分を律して前向きに生きている人は美しく映るようになるということです。

老人で美しいと感じられる人は、コタツに座って日がな一日ミカンを食べながらテレビを観ているおばあさんではありません。(そういうおばあさんは、可愛いとはいえるかもしれませんが、美しいという表現は当てはまらないでしょう。)

高齢になっても現役で社会貢献をしている人がいたら、その人の表情や姿は凛々しく美しいはず。

ですから人生には少々厳しい環境や状況での挑戦が不可欠ではないか、と思うのです。

何歳になっても。たゆまぬ挑戦がスパイスになってその人を味わい深くしていくのでではないかと。

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