昨日の夕食のメニューを思い出せないのは本当に老化現象なのか?

過去数日間の夕飯は何だったか?・・・思い出せないのは記憶力が悪くなっている証拠などとよく言われます。

私自身、昨日や一昨日の夜に何を食べたのかとおもむろに聞かれたら答えられません。

思い出せないのはモヤモヤします。

思い出せない原因がアタマの老化だなどと言われると、それでなくても身体のあちこちが劣化して気になる年代の私としては穏やかではありません。

過去数日間の夕飯が思い出せない、それって本当にアタマの老化が原因なのか?

記憶力が衰えているということなのか?

なんだか違うような気がする。

反論したい気持ちなのにうまく反論できる説明が浮かばなくて、またモヤモヤ。

しかし。

先日なんとなく本を読んでいた中に、

これだ!

という記述に出会いました。

その記述を読んだとき、はっきりと確信しました。

昨日の夕食のメニューを思い出せないのは老化現象ではない

と。

これからは「一昨日の夕飯何食べたか憶えてる?」的な質問がきたら即座に反論してやろうと思います。

そんなの思い出せなくても、「記憶力が悪いということにはなりません」と。

目次

立花隆氏の「思索紀行」 にヒントが

そんな風に私に思わせてくれた本はというと、立花隆氏の「思索紀行」になります。

この本は氏がしてきた旅行記、それも単に訪れた土地を紹介するものではななくて、その旅の中でどんなことを考えていたのかなどを記した思想旅行記ともいえるものです。

もともと旅好きの私としては旅行の記録という点だけでも興味深いのに、立花氏の桁違いの優れたアタマの中の深遠なる世界を覗くことができるため、読み終わるのがもったいないと思ってしまうような有難い一冊です。

さらに、普段ぼんやりと感じていることなのだけれども、けっして言葉では説明できないようなことを、平易な表現で的確に文字で表してくれていたりも。

なんだか秘宝がたくさん隠れている本といった類の本なのです。

前置きが長くなりましたが、その本の中で見つけた一節が以下です。

日常性に支配された、パターン化された行動(ルーチン)の繰り返しからは、新しいものは何も生まれてこない。人間の脳は、知情意のすべてにわたって、ルーチン化されたものはいっさい意識の上にのぼらせないで処理できるようになっている。そして、そのようにして処理したものは、記憶もされないようになっている。意識の上にのぼり記憶されるのは、ノヴェルティ(新奇さ)の要素があるものだけなのである。

立花隆「思索紀行」より抜粋

ルーチン化されたものは記憶されなくて当然

「ルーチン化されたものは、記憶されないようになっている。」ということらしいです。

これを昨日の夕食、一昨日の夕食に当てはめてみると・・・

平凡な日の平凡な食事であれば、ルーチン化されたものとして記憶されなくてもおかしくはないということです。

たとえば一昨日が自分の誕生日で特別な食事をしましたというなら、立花氏の書いている「 ノヴェルティ(新奇さ)」の要素があるものとして記憶されているでしょう。

でも、普段の食事なのであれば、それが多少おいしかったり、おしくなかったりしたところで記憶されなくて当然なのです。

ルーチンの一部なのですから。

この考え方からいくと、逆に昨日や一昨日の夕食を即答できる人がいるなら、その人はほかに刺激のある出来事を経験していなくて夕食という時間だけが刺激があることなのではないかということになります。

フツーの人なら夕食に何を食べたかなんてアタマは記憶せず、もっと別の、記憶すべき優先度の高い重要なこと、たとえば仕事や勉強の詳細や、そのほかの新鮮なこと、たとえばめったに会わない人にばったり出くわしたとか、感動する映画を観たとか、そっちのほうに記憶領域を使うのでしょう。

あるいは夕食づくりに真剣に向き合っている人なら、メニューを記憶しているでしょう。夕食という時間はその人にとって重要な存在なわけですから。

というわけで私はこの一節にいたく共感して過去数日の夕飯に何を食べたのかを思い出せなくてもアタマの老化ではないという結論に至ったのでした。

もともとこの立花氏の一節は、人生に旅は必要であって平凡なことだけをしていたらダメだということを主張している部分の一部なのですが、思わぬところでモヤモヤが解決したわけです。

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