「苦労は買ってでもしろ」というスパルタ的な考えについて

「苦労は買ってでもしろ」といった言葉が昔から存在します。

その一方で、最近は「人生は楽しく生きればいい。嫌ならやめればいい。」的な考え方もあったり。

個人的には、後者のほうが正しいかもと、最近では思えるようになってきました。

目次

楽しいという感情は心のエネルギー

なぜなら、「楽しい」という感情は最高の心の疲労回復になるらしいです。

その一方で「楽しくない」ことをする、要するに興味や関心が持てないことを無理やりしていると心が疲弊してしまう。

・・・確かに思い当たります。

楽しみにしていたディズニーランドに行って一日中遊びまわったあとは、身体はくたくたに疲れていますが心は疲れておらずむしろ充足感に満たされています。

日常を楽しいと思えることだけで満たせば、心のパワーがどんどん蓄えられよりよく生きれるはず。

心にパワーがなければ決して生産性は上がりませんから。

「苦労は買ってでもしろ」を考える

それを踏まえて「苦労は買ってでもしろ」を考えてみます。

ひと昔前までは、苦労しろ、辛抱しろ、という考え方が当たり前でした。

ですのでたとえば会社で上司からのパワハラやセクハラがあっても、「耐えるのが当然」ぐらいな時代があったのです。

人生は厳しいもの、人は苦労しないといけない、親は苦労している背中を子供に見せなければならない・・・

そんな考え方に洗脳されすぎて来た感があります。

「楽しい」という感情が最高の心の疲労回復につながり、逆に「楽しくない」という感情が疲労につながるなら、

楽しいと感じられない状況を避けたほうが、健康的で確実に人生のパフォーマンスが上がるはずなのに・・・です。

嫌なことを減らす

「楽しいことをやる」

これを意識している人と、意識しないでなんとなく惰性で過ごしている人とでは人生のクオリティに大きな違いがでてくるはず。

ただし、「楽しいか」と「楽しくないか」の判断を、単純な考えで見極めるのは危険です。

単純に目先の状況だけで判断せず、常にしっかりと見極めが必要なんだと思います。

では、どうしたら見極めができるのか・・・

正しく見極めて、楽しいことで満たす

それには、「苦労は買ってでもしろ」でいう「苦労」を、「理不尽に辛いこと」ではなくて、「挑戦」という言葉に置き換えて考えてみるとよいかもしれないです。

たとえば学生さんが「机に向かって勉強する」ということについては、ただ単純に考えれば「楽しくない」こととしてカテゴライズすることになるでしょう。

でも視座を高くして、人生レベルで俯瞰して眺めたときに「机に向かって勉強する」が、「行きたい大学に入り充実した学生生活を過ごしている」や「なりたい職業について思うがままにに活躍している」につながっていることを想像できれば、

この「机にむかって勉強する」ことは「楽しくない」どころか、むしろわくわくする感情を生み、貴重であり感謝すべきものと感じられ、「楽しい」ほうにカテゴライズされるはずです。

ぱっと見では「楽しくない」ことに思えても、その先が「楽しいこと」につながっていれば「苦しい」とか「辛い」という負の感情ではなくて「挑戦」という前向きのイメージに変わります。

結果的に、「机に向かって勉強する」ことが、心も健康的になりどんどんパワーがたまっていく行動となります。

一方で「楽しくない」ことの先がやっぱり楽しくないことだったり、耐えるだけでその先に価値を見出せないものであるのなら、さっさと避けて人生を歩んだほうが生産的なのだと思います。

低い視座で考えると見極めを失敗するので、いつも高い視座で考えて、その苦労が「挑戦」という言葉に置き換えられるものなのかを判断することが大切です。

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